興作が二十五歳の頃、薩摩藩は傍若無人の限りを尽くしていました。それを見かねた興作は、あるとき薩摩藩の武士を戒めています。また、、明治十二年に廃藩置県がおこなわれ、その際に日本政府は琉球王府より財産を国庫に納入せしめていました。泊村の持つ、村民の共有財産もその対象でしたが、興作が取り上げの交渉の場に列席し、決死の覚悟を持った断固とした姿勢を貫いたため、日本政府は断念し引き上げたそうです。このように興作は義侠心を持ち、力と技を自己のためでなく、泊村のためにつかっていました。
他にも多くの逸話を残し、名を轟かせた興作でしたが、やがて七十歳の天寿を全うし、明治三十一年十一月七日に生まれ育った泊村で生涯を閉じました。 (参考文献:松村興勝著 空手(泊手)中興の祖 松茂良興作略伝)
なお、現在、沖縄県那覇市泊3丁目の新屋敷公園に松茂良興作の顕彰碑と、同泊1丁目に石碑があり泊手中興の祖、武士・松茂良興作を讃えている。